287193 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

09話 【愛し抜く、と誓う】


←08話┃ ● ┃日常編→



09話 (―) 【愛し抜く、と誓う】



_志貴side

[1]

欠勤は4日目を迎え、何をするでもなく日がな一日不貞寝をして過ごした。ありがたいことに熱はすっかり下がっていた。
会社を辞めたりはしない。でも行きたくない。そんな堕落下にいた私のもとを一昨日、不破君が訪ねて来た。
私の心配をしてのことだと思うと追い返すこともできず面会はしたが、私から負のオーラを嗅ぎ取ったのだろう、そそくさと帰ってしまった。
きっと呆れ、幻滅したに違いない。
こんな腑抜けた女が先輩風を吹かしているなんて、世の中間違っているよね。いっそ勤続年数を返上したいぐらいだ。
青柳チーフに告白した件についても、丸ごとなかったことにしたい。執拗に食い下がり、醜態を曝してしまった。
それだけならまだしも、あの場面を誰かに見られていたらしく、攻撃ならぬ口撃を受けた。
『高望みよ、釣り合いが取れないわ』。そんな言葉ならまだ耐えられた。
青柳チーフと私を並べたら、ちぐはぐで滑稽なカップルの出来上がり。それは私も認めてる。
でも、『勤務中も頭の中を色欲で満たしている志貴さんの指示なんか受けたくないです』という恨み混じりの一言には深く傷付いた。
アルバイトとパートタイマーの諍いを中途半端に掻き乱してしまい、結局どちらの力にもなれず、八方美人な性格が高じてどちらも敵に回してしまった。
私を扱き下ろす言葉の数々は、そんな彼女たちから発せられたものであり、他部門の者からは苦笑いで頑張れよと励まされたのだけれど、心が疲れてしまった。
だからこうして泣きモードで布団にくるまっている。これ以上自分の殻が破れないように。繭から出られないように。
全ては自分を守るためだった。籠城という手段を、自ら選んだのだ。
この我儘な態度は減給に匹敵するだろう。いや、それでは甘い。数日間の出勤停止命令が下るかもしれない。
枕元で携帯電話が着信音が鳴った。とうとうお咎めがきたと思った。事務方からの通達に違いない。
もぞもぞと這い出て画面を確認する。着信1件、留守電再生。
流れて来たメッセージは青柳チーフの『志貴、俺だ。復帰した。今度はお前がダウンしたと不破から聞いた。養生するように』という文言だった。
……そうか、復帰したんだ青柳チーフ。治ったんだ、肺炎。よかった。かなり辛そうだったから。
そんな大変な時に4日も穴を空けたりして、不破君や平塚君、パートさんたちには悪いことをしてしまったな……。
……。駄目だ、ここままじゃ。よくない、絶対よくない!
居ても立ってもいられず、私は速攻着替え、出掛ける準備をした。
11時42分。今から行けば、ラストまで働ける。
働かせて貰えればの話だけれど。


[2]

叱責を受ける覚悟でいたものの、擦れ違う人たちが向けるのは好奇の眼差しだった。
それは失恋した者を面白おかしく見るような見世物めいてはおらず、さながらゴシップの渦中にいるような印象だった。
腹を据えて店長や食品副店長に謝罪に行けば、「話は青柳から聞いている」と先回りで言われ、狐につままれるしかない。
一体私の処遇はどうなっているのか。処罰されこそすれ、なんのお咎めもなしプラス野放し放逐されるなんて、なにごと?
注意されなかったことが腑に落ちず、私は事務所の奥へと突き進んだ。
デスクに総勘定元帳を広げ、2画面仕様のデュアルモニタパソコンには株価関連のグラフやチャート。それらを操る主に声を掛ける。
「千早チーフ。お話しがあります」
首を上げ、私を見上げた。そしてぎぃ、と椅子にもたれた千早チーフ。青色光を遮断するブルーカット仕様の眼鏡越しに、視線が克ち合う。
「志貴さんか。体調はもう大丈夫なのかい?」
「はい、お陰様で、もう大丈夫です」
「よかった。それで、話というのは?」
「休んだ4日分ですけれど……」
「あぁ。有給休暇にするように昨日青柳君から言われたから、そのように処理した」
「青柳チーフからですか?」
「彼を看病している内に菌がうつったと聞いたんだが。彼はマイコプラズマ肺炎の診断書を提出したが、君もそうなのか?」 
どうなっているの? 私が青柳チーフを看病? なんの話? 青柳チーフの部屋に行ったこともなければ、接触した覚えもないのに。
「看病疲れでダウンしたのか。交際開始早々大変なようだが、志貴さんなら公私ともども頑張れそうだな。応援してるよ」
ふっと笑う千早チーフが見れて役得! 
いつもならそう思っただろう。でも今はそれどころじゃない。聞き逃せないフレーズを耳にした。
交際開始?
疑問符だらけで答えが知りたい。
これ以上ボロが出ないように、私は事務所を退室した。


[3]

事務所、バックヤード、どちらにも青柳チーフはいない。普段なら昼休憩に行く時間だと、探し終えてから自分の落ち度に気が付いた。
私が休んだことで3人体制になってしまっているから、時間をずらしているに違いない。チーフか不破くんのどちらかは売場にいるのだろう。
丁度階段から不破くんが降りて来た。入れ替わる時間なのか、青柳チーフもバックヤードへ戻って来た。
私はそれとなく近付くが、踏み出せなかったばかりに気付かれず、2人の会話が始まってしまった。
「赤ん坊をカートのカゴに入れていたのを見て、他のお客さまから『汚いからやめさせろ』と苦情が来たんだが」
「そんなことがあったんですか?」
「あぁ。だが直接伝えられるわけもなく、言い回しを考えるのに苦労した」
「『その商品プライスレス』なんて最低な冗談、言えませんもんね」
「『赤ん坊が汚いからやめて貰えませんか』とも言えないしな」
「結局、何て言ったんです?」
「『赤ちゃんに値段はつけられないと思うので、カゴからお出し下さい』」
「苦しいですね……」
「俺がオブラートに包んで言えるのは、せいぜいこれぐらいだ」
……これも日常茶飯事内におけるカウントされるべき珍事なのだろう……多分。今度は不破くんが報告した。
「柾さんやソマさんと一緒にフードコートでご飯を食べていたんですけど、離れた位置に迷子がいたみたいで。
居合わせた女性社員がサービスカウンターに連れていったんですって。
偶然居合わせた本部の人間が「彼女は誰だ?」なんて言い出して、シンデレラ探しですよ。紳士陣は戦々恐々で。
柾さんは『千早じゃありませんように』、僕は『透子さんじゃありませんように』、ソマさんは『八女サンじゃありませんように』って」
「誰だったんだ?」
「馬渕さんです」
「嘘だろう?」
「それが本当なんですよ。ビックリですよね」
……駄目だ、やり取りが終わるのを待っていたら日が暮れてしまう。
意を決して進み出た。影と靴音に気付いた2人の男性が顔をあげ、私を見やる。
「わ、ビックリした。志貴さん!」
驚いた不破くんに対し、青柳チーフは面白いものを見たかのように口角をあげた。
「体調は治ったみたいだな。安心したよ。俺を看病した所為でダウンしたとあっては彼氏失格だからな」
「……なんの冗談ですか、チーフ。相当悪質なデマが流れているみたいですけど」
「デマ?」
「……私が、青柳チーフと付き合ってるという噂です。何がどうなってるんですか? ご存知なんでしょう?」
「事実だろう?」
「事実? 事実ですって?」
「俺と志貴は付き合ってる。なぜなら俺はお前にベタ惚れで、何度断わられてもめげずに交際を申し込んだから。……だろ?」
「……楽しいですか? 人の恋心を土足で踏みにじって。馬鹿にしてるんですか?」
押し殺した声を遮ったのは不破くんだった。「志貴さん、ちょっとこっちへ」と断わると、私を一番端まで連れていく。
そこは細長い倉庫の隅で、スイッチを付けなければどこに何があるのか分からないほど暗く、人気もないような、密談するには打って付けの場所。
それでも不破君は念を入れるように周囲に気を配り、本当に人がいないかどうかを確認した。私もそれにならい、ぐるりと首を動かす。
チーフからも距離を取っている。感情的にならなければ、決して漏れ聴こえやしないと保証できた。
「青柳チーフは過度な中傷から志貴さんを守るために、あの噂を流したんです。
そうでなければ今だってまだ志貴さんは振られたショックで寝込んでいると思われていたはずです」
『はずです』ではなく、それはまごうことなき事実だ。
のこのこと姿を現わせば、その時点でまだ「やーい、フラれた」と後ろ指をさされていたことだろう。
「あのね不破君。何がツラいか分かる? たとえこれが嘘の恋愛ごっこでも、嬉しいって思ってしまっている自分がいるの。馬鹿だよね、本当」
上から目線で宣告された、偽物の恋人。主導権を握っているのは青柳チーフ。惚れた弱みだから仕方ない。
「志貴さん……」
不破くんはそれ以上何も言わなかった。私たちが戻ると、チーフの姿はなかった。昼休憩に行ったんでしょうね、と不破くんが呟いた。


[4]

「志貴、ご飯食べに行かない?」
ドライの詰め所に八女さんが顔を出し、手招きすると出し抜けにそう言った。
青柳チーフに関する何かを伝えたがっているのだとすぐに分かった。八女さんとプライベートで外食をするなんて、今まで一度としてなかったからだ。
「私、今日は最終までなんです。シフト」
上がるのは21時になるだろう。かなり八女さんを待たせなければならなくなってしまう。
すると八女さんは部屋へずいっと入り、壁に留めてあった勤務計画表を確認しだした。
「あなた、明日は遅番なのね」
「えぇ、そうですけど……」
「仕事が終わったら、マンションの私の部屋に来て。ご飯作って待ってるわ。今夜はうちに泊って行けばいい。必要なものは私が用意しておくから」
「え!?」
「話したい気分でしょ? 顔がそう言ってる」
指摘されても「そうかな?」と首を捻らざるをえない。
八女さんはお節介だと突っ撥ねることもできた。それが出来なかったのは、私を見る目が寂しそうだったからだ。
私を憐れんでいるのだろうか。同情しているのだろうか。
もしそうだったとしても、『志貴に声を掛けなければ』という衝動に駆られたのだけは間違いない。
それはきっとありがたいことなんだろう。見て見ぬフリだって出来るのに。出来たのに。八女さんは、そうしないんだな。人を放っておけないんだ。
「分かりました。終わったら、直行します」
約束を取り付けたあとは、再び我武者羅に働いた。出来得る限り欠勤をした3日分を取り戻したい。


[5]

「青柳は社内恋愛を心底イヤがっていたの。彼の言い回しは捻くれているけれど……少しでも気持ちを汲んでもらえたらって思う」
「分かってます。ずっと見てきましたから。でも偽りの演技はいつかバレます。メッキが剥がれてしまうのと同じで」
「青柳は筋書きを用意しているみたい。ほとぼりが冷めたらこう言うんですって。『志貴に振られたから別れたよ』って」
「どうしてそういうことを本人の口から直接聴かせて貰えないんでしょう? 八女さんも不破君も、私からしたら、立ちはだかる壁に見えてしまう」
「そうかもしれないわね。あなたからしたら私は青柳の近くにいる女という認識になってしまうんでしょうね。でも彼とは同期で友達というだけよ」
「チーフが守りたがっているのは部下としての志貴迦琳で、女としての志貴迦琳なんかじゃない。……居た堪れません」
「それでも青柳はあなたを守ろうとしているわ」
「……」
「青柳が上から目線なのはあなたに嫌われようとしているからなのだし、きっと青柳はね、今頃気付いてる。
志貴が健気だってこと。本当に自分を好いてくれているんだってこと。誰よりも情熱的で、女性らしいってこと。
朴念仁だからねー、青柳は。鈍いし、認めたがらない。でも大丈夫よ。
『恋愛ゲームだ』なんて馬鹿みたいに格好付けてるけど、私には、翻弄されて本気にさせられてる青柳の姿が今から目に浮かぶの。
ふふっ。滑稽だけど新鮮で、そんな青柳を見るのも悪くないわ。今から言っちゃう。おめでとう、志貴」
「……呑気ですね、八女さん」
「あら、何言ってるのよ。これはチャンスよ。怖気付いちゃだめ。
恋人のフリだけど、世間的には正真正銘『恋人』なんだから、何をしようが志貴の勝手よ? 自由なの。既成事実だって作りたい放題」
こそっと囁く八女さんは魅惑的で、しかもその内容にもどきっとした。押しの一手ってこと?
「今は青柳が主導権を握っているけど、志貴にだって手綱を取る道はあるのよね。青柳ったら、そこんとこ分かってるのかしら?
いいえ、絶対気付いてないわね。あー、愉快!」
マッコリの缶を片手に、けたけたと笑う八女さんである。でもふと真顔になって、静かに言った。
「私は志貴を尊敬してる。真正面から青柳にぶつかったでしょう? 自分の気持ちを偽らずに最後まで言い切ったでしょう? 凄く偉いと思うの」
「自分のワガママを押し通しただけだとも言えますけど」
ふふっと八女さんは笑った。
「……幸せになれるといいわよね、志貴。ううん、志貴だけじゃない。千早も潮も私も。香椎も黛も馬渕も。……世の中の女性、全員!
恋に生きて、仕事に生きて、試練をくぐり抜けて……タフなんかじゃないのにね、女なんて。
脆くて、危うくて、寂しがりやで弱いのに、みんなみんな頑張ってる。歯を食い縛ってる。
でも水面下で一所懸命足を動かしている白鳥のように、その必死なサマは億尾にも出さない。
だってそれって美しくないでしょう? 時には見苦しいとさえ判断されてしまう。やるせないわよね、強くないのに無茶ばかりさせられて。
だから男性には守って貰わないといけないの。愛されないと寂しくて死んじゃう。そういう、儚くて美しいものだから」
「八女さん……」
「幸運を祈ってるわ。大丈夫、青柳とあなた、とてもお似合いよ? 自信を持って。もっと素直になればいいのよ。
好きって何回言ってもいい。減らないわ。何も減らない。プライドを捨てることにもならない。言い続けていいの。攻撃的じゃなく、無償の愛なら。
だってね、人を愛するって素敵なことだから。これからも包んであげてね、青柳のこと」
八女さんのセリフは青柳チーフの気持ちを丸っきり無視している。
でもなぜだろう? するりと「はい」、なんて言葉が滑り落ちたのは。頷いてみせたのは。
私でも頑張れる? これ以上の勇気を持てる? 自分を信じてもいいのだろうか。だとしたら賭けてみる価値は充分だ。 
無理かもしれない、不釣り合いかもしれない、不相応かもしれない。そんなマイナスのイメージが、いつの間にか取っ払われてる。
恐れない。もう逃げない。足音を耳にしただけで踵を返していたあの日の私とはもう違うから。
受け入れようと思う。自然体であろう。だって、愛にはきっと、見せかけの装飾、取り繕った見栄なんて似合わないだろうから。
「憑き物が落ちたみたい、っていうのは変かもしれないけど、好きって、こういうことなのかな……」
たどたどしい文を繋ぎ合わせてなんとか八女さんに説明すると、「そうよ!」と満面の笑みで応じてくれた。
大丈夫だ、と思った。
どんな結末になっても、もう大丈夫。天邪鬼には戻らない。
心に根差した蕾は開花したがってる。


_青柳side

[6]

穏やかな顔付きになった志貴は物腰も柔らかくなり、陰でまことしやかに「これは恋が為せる業だ」と囁かれているのを俺は知っていた。
人の噂は75日というが、実際には2週間ほどで落ち着いた。順調な恋愛は、周囲を白けさせるらしい。つまり、これで作戦は成功したことになる。
それから3週間が経ち、4週間が経ち、1ヶ月が経った。その頃にはもう、疑う者もいなくなっていた。
だがこれは俺にとっては番狂わせな出来事でもあった。
仲違いをして別れなければならなかったのだ。それも、俺が嫌われる形で。志貴が俺を振る方法で。
それなのに志貴は、俺を見る眼差しをすっかり変えていた。以前は脅え、震えていた瞳も、今では慈しみが宿っている。
足音を聴きつけるなり逃げていたくせに、今では振り返って笑みを零す。
――憎しみ合えない。喧嘩など起こりようがない。
けしかけたこともあった。わざと喧嘩が起きるように仕向けて、怒り任せに別れの言葉を切り出させようとした。
だがそれも無駄だった。志貴は歩み寄ろうとした。分かり合える道を選ぼうと、真剣に思案しだした。
本当に変わったのだ。
そうなると俺も変わらざるを得なくなった。
だってそうだろう? 敵愾心のない女性を、頭ごなしに叱れるわけがない。
叱る回数が減る。怒鳴る回数が減る。猜疑心は霧消し、穏やかな時間が生まれる。他愛のない会話が増え、相槌が増える。
理解しあった先に友情が育まれ、尊敬しあう内に、それは愛情へと変わった。
自覚した俺は、志貴に言った『ウソ』を撤回した。もはや俺の意固地など、生まれてしまった恋心にとっては邪魔なものでしかなかったから。
志貴は素直に受け入れた。「さようならですね」。彼女はそう言った。
さようならだって? 俺にはそんなつもりはさらさらない。
「俺はウソを撤回しただけであって、お前と別れるつもりはない」
「どういう意味ですか?」
「『俺と志貴は付き合ってる。なぜなら俺はお前にベタ惚れで、何度断わられてもめげずに交際を申し込んだから』」
「その言葉は……」
「――ウソではなくなったという話だ」
「ウソじゃなくなった……?」
「どの口がそれを言うんだと思うかもしれないが……」
志貴の髪に触れ、それを一房、耳に掛けてやる。
思えば、これが彼女を女性として意識して触れた初めての行為。
今度は志貴の手が俺の手首を掴んだ。そのまま己の頬へと導く。彼女の赤い頬は武骨な手の平で撫でられ、それでも心地よさそうに目を瞑った。
「……続けて下さい」
彼女はゆっくりと目を開いた。その一言を告げる俺の顔を、一瞬でも見逃さないとでも言うように。
「俺はお前を大切に想う。何よりも、誰よりも愛おしいんだ。志貴」
「……ありがとうございます!」
ふふっと笑った目尻から、つっと涙が伝った。
こうして、志貴迦琳は公私ともに俺のパートナーになった。


_志貴side

[8]

近付いて来る。
一定のリズムで、足音が。
「誰か、志貴を見掛けなかったか?」
「いいえ、見てません」
行かなければ、早く。
「お前は?」
「いえ、チーフ」
「どこへ行ったんだ……? おい、志貴を知らないか?」
貴方が呼ぶ。だから私はそれに応える。
「お呼びですか、青柳チーフ」
「志貴」
チーフは私を振り返った。顔には微笑が浮かんでいる。優しげな薄鈍(うすにび)色の双眸が私を捕えた。
「来月ドライの会合に出席することになった。このリストに載っている資料を揃えてくれ」
A4用紙3枚に渡る内容を頭に叩き込み、青柳チーフに返却する。
「売上レポート関連については早速明日から集計できるようPOSオペレータに依頼しておきます。レポートは私が毎日ファイルに綴って保管します」
「頼む」
「はい! 任せてください」
チーフの信頼を得るようになってから、ユナイソンネオナゴヤ店ドライ売り場は円滑にコミュニケーションが取れている。
チーム内の不和は取り除かれ、元の鞘に納まった。
今にして思えば、歯車を狂わせていたのは私のひん曲がった性格が大きな原因だった。
上司には天邪鬼な態度だったし、部下にはどっちつかずで頼りない姿を曝し続けていたもの。
頼られないのは当たり前の話で、それでもそんな私を見捨てずにいてくれたチーフや八女さん、不破君たちユナイソンの仲間――。
それは掛け替えのない、私の宝物だ。
交際は順調で、私たちは婚約を交わした。薬指の指輪が婚約指輪から結婚指輪になり、やがて身籠った私はユナイソンを退社した。
「振られたから辞めます、だっけ? あの時辞めていたら、今のお前はいなかったな」
幹久さんは、たまに過去の話を蒸し返しては私の頬を膨らませるようなことをわざと言う。
「いざとなったら女性は強いんです!」
こちらもわざと拗ねてみせる。
「そうだな、迦琳は強い。でも俺を置いて行かないでくれ。立つ瀬がなくなっちまう」
豊かになった腹部を優しく撫でる、未来のパパ。なんだかくすぐったい。自然と笑みが零れ、胸が切ない気持ちでいっぱいになった。
「勿論です、旦那さま」
道はいつだって正せられるし、自分だって変えられる。未来は変幻自在なんだと。
そのことを教えてくれたのは、ねぇ、八女さん。あなたでした。ありがとう。
そして不破くんにもたくさん救って貰った。彼にも心から感謝を。ありがとう。
私の両腕は、愛しいものを抱き締めるためにあるの。
私の目は、愛するものを最期まで見届けるためにあるの。
私の心、身体、魂、全てを使って愛し抜くわ。
だってほら、世界はこんなにも儚くて、でも逞しくて、美しいものだから。
貴方と歩む。どこまでも、行けるところまで。
――それが、志貴迦琳の一生よ!


END.

2012.07.18
2023.02.13 改稿


←08話┃ ● ┃日常編→


© Rakuten Group, Inc.